「東京物語」について

世界中の人々に愛される名作、小津安二郎監督「東京物語」(1953)はあまりに有名で、一般人からプロの評論家までが既に様々な分析・批評・解釈・見解を提示しているので、私なぞに付け加えられる事など何もないのだが、また最近この映画を観る機会に恵まれたので、私の感想も少し綴ってみようと思う。

数年前、初めてこの映画を観た時、序盤はそのスローさと静けさによる眠気と退屈のせめぎ合いであったが、中盤からは家族間のひりひりするような愛憎半ばのリアリズムに、疲労困憊してしまった記憶がある。また、古風(封建的)な家庭に育った私にとって、笠智衆の優しく穏やかな父親像はかなりのカルチャーショックだったこと、年老いた両親を邪険に扱う、がさつな杉村春子や気弱な山村聰が妙に腹立たしかったこと、を覚えている。

この一年ほど邦画を観まくって来たせいか、邦画のペースにもようやく慣れ、今回は最初から最後まで集中して観ることができた。多くの人が言う通り、これは時代と国境をいとも簡単に乗り越える、「家族」という普遍的なテーマに沿った物語であり、過剰なドラマ性やセンチメンタリズムを排除し、淡々とリアルに描いているからこそ、誰もが誰かの子供である限り、この映画の「家族」に共感し、ノスタルジアと寂しさを覚えるのではないだろうか。

この物語で両親は、運良く戦災を免れた尾道の港町にのんびりと暮らしており、もう人生のピークを過ぎた二人にとっては、せいぜい「現状維持」が理想であり、つまり「守り」の姿勢で生きている。長男・長女は生き馬の目を抜く東京で開業・起業し、三男も大阪で鉄道員として働いている。子供達は今まさに脂が乗っている働き盛りで、さらなる活躍と成功を望む「攻め」の姿勢で生きている。親世代(田舎)と子世代(都会)の価値観、時間の速さ、エネルギー量の違いというのも、時代と国境を超える普遍的な要素なのではないだろうか。

この映画の時代設定も封切りも、同じ1953年(昭和28年)、戦後8年目のことである。とは言え、日本は戦後7年間も連合国軍の占領下にあった訳で、当時の首相吉田茂が平和条約・安保条約に署名したのが1951年、GHQの統治に終止符が打たれたのは翌1952年のことである。その間、様々な変革政策(軍備解体・・軍事裁判・公職追放・政治の民主化・農地解放・財閥解体・情報の検閲など)が実施され、日本人はめまぐるしい変化の渦中にあり、敗戦のトラウマや戦死者への喪失感などと向き合う余裕などどこにもない時代だったのだろうと想像する。

その上、1950年には朝鮮半島で戦争が勃発、米軍が日本に物資やサービスを発注したことで特需景気が起こり、産業立国として復活するためのチャンスを得た日本は、メキメキと力を付けて破竹の勢いで復興していく。50年代初頭は、その後の高度経済成長の基盤になったとも言われる、いわば正念場だったのである。

「東京物語」は、何度も映る煙突から吐き出される黒い煙に象徴されるように、そんな熱に浮かされたような時代の、復興に高揚する東京で、開業・子育てに奮闘する長男、人を雇えるほどの美容院を経営する長女、大阪駅で鉄道員として働く三男。そして、そんな時代の移ろいとは全く無縁の、時が止まったような田舎で暮らす両親。その両者の間に生まれる、誰が悪い訳でもないのに、いかんともし難い「齟齬」を疑似体験させる映画である。それは、どんな時代においても、どんな民族にとっても、誰もが心当たりのある、普遍的などうしようもない真理なのであり、それが世界中で愛され続ける理由なのだと思う。

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とても単純なストーリーである。広島県尾道市の田舎に暮らす老夫婦が、東京で生活する子供達に会いに行く。子供達は罪悪感を覚えつつも、多忙な毎日の中で両親を世話する余裕がない。邪魔にされてしまった老父婦は、戦死した次男の嫁にねぎらわれ、感謝する。そして尾道へ帰る途中で妻が病気になり、大阪で途中下車して大阪に住む三男の世話になる。10日間の旅の間に子供達、孫たち全員に会えたと喜ぶ妻は、尾道に戻った途端に急死してしまう。今度は子供達が尾道へやってくる。しかしやはり忙しい子供達は葬式が終わるとすぐにそれぞれの帰路についてしまう。残ったのは次男嫁。落ち着くまで義父と義妹の面倒をみて、やがて東京へ帰っていく。それだけの話である。

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長女は、一貫して現実主義・合理主義であり、感傷的な言葉を発した後には、まるでそれを打ち消すかのように理性的な発言をする。母親が亡くなった朝、「(東京に)出て来てくれて良かったわ。元気な顔も見れたし、色々話もできたし・・・」としんみり言った後、「紀子さん、あなた喪服持って来た?」と突然普段の調子に戻ったり、葬式の後の精進料理を食す場面で「(お母さんが亡くなったなんて)なんだか本当に夢みたい・・・」と弱々しく言ったかと思うと、「兄さんあなたいつ帰る?」と唐突にプラクティカルになるのだ。戦後の不況の中、そうやって一時の感傷に流されず、合理性・能率・効率を優先して美容院を気丈に切り盛りしてきた女経営者の姿を思わせる。

三男は親孝行する前に母親が亡くなってしまったことを悔やみ「今死なれたらかなんわ、墓に布団着せられずや」と次男嫁に弱音を吐くのだが、長男長女がいつ帰るかと相談し合っている時、自分はまだ帰るつもりはないと意思表示をしたにも関わらず、次男嫁も帰らないと分かった瞬間、やっぱり一緒に帰ると言い出すのである。せっかく父親に親孝行できる機会だと言うのに、次男嫁に丸投げして、たかが「出張の報告」と「野球の試合」のために帰ることにするのだ。

長女のセリフの中に「ずいぶん大きな(太った)お母さんで学校へ来ると恥ずかしかった。学芸会の時、椅子壊しちゃったのよ」、「お父さん昔はよく呑んだのよ。いつもぐでんぐでんになって帰ってきて、お母さん困らせたものよ。私たち、嫌でね」というくだりがある。家族という、長い歴史を共有してきた人々に対するアンビヴァレントな感情が見え隠れするのだ。しかし例え複雑な気持ちがあったとしても、子供達の中で、遠いところを訪ねて来てくれた両親のプライオリティがあまりに低すぎると思う。東京の珍しいお饅頭くらい、気持ちよくご馳走してあげるくらいの心意気がなぜ無いのだろう。東京のような大都会で「はぐれたら一生涯会えないかも」と心細そうにしている老夫婦を、宿無しにしてしまうような扱いは滅茶苦茶である。いくら働き盛りで「攻め」の姿勢だとは言え、老いた両親に会えるのはこれが最後かも知れない、という一期一会の概念があれば少しくらいビジネスに響いても、親孝行する時間を取るべきだったと思うのだ。それが出来るほど人間が出来ていないのが現実、というのも時代と国境を越える真実なのかも知れない。

ラストで父親が次男嫁に「自分が育てた子供より、いわば他人のあんたの方がよっぽどワシらに良うしてくれた」と言うシーンがあるのだが、戦死した次男の嫁がこの老父婦に優しかった、というのは、彼女も変化や進化を望んでおらず、あくまでも現状維持を願う「守り」の姿勢で生きており、しかも夫の死後8年間ずっと独り寂しく暮らしてきた点を踏まえると、むしろ(自分のために)喜んで老夫婦をもてなしたのではないかと思う。つまり、この妻がいい人間だったからではなく、もしも彼女にも新しい家族がいたならば、他の子供たちと同じようにしか対応出来なかったかも知れない。

次男嫁が口にする「私ずるいんです」という言葉にも、性的な意味合いが含まれるだの、この名作の脚本唯一の瑕瑾だの、諸々の解釈があるようだ。私はこの「ずるい」には二重の意味合いがあると思っている。まず第一に、自ら積極的に行動を起こす勇気はないが、この寂しい生活が変わる(誰かが変えてくれる)ことを願っている、ずるさ。第二に、最近はもう夫のこともあまり思い出さなくなっているのに、義母の前ではずっと夫を思い続ける貞節な未亡人を演じてしまった、ずるさ。二重の意味でずるいからこそ、この告白となったのではないだろうか。

冒頭とラストに顔を出す近所のおばさんについては、色々な解釈があるようだが、のどかで平和な田舎暮らしの唯一の難点、プライベートまで踏み込んで来るような、近すぎる距離感の人付き合い、そしてお互いを知りすぎているために芽生える嫉妬(隣の芝は青い)やシャーデンフロイデ(他者の不幸は蜜の味)、そんな本音を隠して建て前で交流しなければならない面倒臭さを表現しているのではないかと私は思っている。この点だけは、都会で暮らす長女や次男嫁にみられる、礼儀正しくもプライバシーを侵害しない、他人との関係の希薄さがはるかに気楽に思える。

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