「菊次郎の夏」について

ヴェネチア映画祭にて「HANA-BI」(1997)が金獅子賞を受賞後、それまで国内ではあまり評価の芳しくなかった北野映画も俄然注目を浴びることとなり、国民が北野監督の次回作に期待を膨ませる中で発表されたのが「菊次郎の夏」(1999)である。「ソナチネ」(1993)や「HANA-BI」で描かれたような裏社会、暴力、死などのテーマから離れ、「母をたずねて三千里」のようなスタンダードなものを撮りたかった(オフィス北野HP参照)という監督の思いもあったようで、絵本のようなファンタジー仕立てのロードムービーになっている。夏休みの絵日記という体裁で、小説のようにチャプターごとに分かれているので、とても見やすい。評価は賛否両論に分かれており、特に後半、たけし軍団のギャグが炸裂する部分で、感想が真っ二つに相対しているようだ。

子役をメインに配しており、また銃撃戦や惨殺シーンがないことから、それまで北野作品を食わず嫌いしていた観客にも間口が広い映画であることは確かだが、子供とおじさんの夏休みの冒険、として片付けてしまえるほどの安易な話でもない、と思う。登場する子役と菊次郎(武)の心情としては、それまでの北野作品の登場人物たちと共通するような、心の中は満身創痍で、ヒリヒリするような孤独を抱えているように思うのである。

ヒッチハイクを重ね、道路脇をひたすら歩くシーンが続くが、周りはどこまでも濃い緑の草木が力強く美しい、のどかな田舎の夏の風景である。しかし、そんなイメージとは裏腹に、菊次郎とマサオの心は殺伐としてささくれだっているようにさえ思えるのだ。母親に充分な愛情を注がれたことのない、つまり「普通の家庭」を知らない二人である。そんな子供に免疫のない菊次郎と、大人の男に免疫のないマサオは、お互いどうしたらいいか分からなくて居心地悪いだろうし、およそ旅行などしたこともなさそうな二人には、知らない土地に行く不安も募るだろう。二人を引き(遠くから全体像)で撮影し、その体格・背丈の違いが強調されるのだが、まるで小さな子供が二人並んで歩いているように、おぼつかない、頼りない気持ちにさせられる。

前半では、武が演じる菊次郎のクズっぷりを余すところなく描いていて、その横暴で非礼な振る舞いや物言いに、興醒めする観客も多かったろうと思う。もうそれは呆れるほどの粗暴さで、大人の姿をしたガキ大将でしかない。しかし、それは中盤からの菊次郎の微かな変化を際立たせるには必要な演出で、終盤ではあんなに厭わしかった菊次郎を、愛おしく思ってしまうほどの効果を発揮するのである。

この作品の、というより、菊次郎のターニングポイントは、マサオが自分の母親を知らないと聞き、菊次郎が「お前、お母さんに会ったことないのか。この子も俺と同じか・・・」と独り言を言うシーンである。この瞬間、菊次郎にとってマサオは自分の中のインナーチャイルドと重なり、やっとマサオに寄り添う気持ちになるのだ。そして住所にあった家から、写真に写っていた女性(母親)とその家族が出てくるシーンでは、マサオより菊次郎の方がずっと深く傷ついた表情をするのである。それは、マサオの気持ちが痛いほど分かってしまったからか、自分の経験と重なり、心の傷を抉られる痛みだったのか、あるいは表札の名前が違っている時点で既に予感があったのに、厳しい現実からマサオを守ってやることが出来なかったことへの落胆か。

それまでは、利己的で卑怯な嘘八百を並べてきた菊次郎だったが、泣きじゃくるマサオを励まそうと、「行こう、なんか人違いみたいだったなぁ」と、菊次郎は初めて他人を思いやるための優しい嘘をつく。母親は引っ越してしまったに違いない、さっきの人たちに聞いてくる、などと誤魔化してマサオのそばを離れ、どうしようかと考えあぐねる菊次郎は、道ゆくバイカーから可愛らしい天使の形をした鈴を無理やり奪い取る。そして「お前のお母さんなぁ、引っ越しちゃったんだって。お前が来たらこれ渡してくれってさ。これは天使の鈴といってね、苦しいこととか悲しいことがあったら、これを鳴らすと天使が来て助けてくれるってさ」と、必死でマサオを励ますのである。子供となんて、どうやって接したらいいのか分からず、戸惑ったり照れたりしながらグズグズとテキトーに旅をしてきた菊次郎だが、初めて自身の「照れ」を忘れるほど懸命になって、傷ついたマサオを元気付けようとするのである。それはきっと同時に自分の中の、何十年も同じように傷ついたままの小さな菊次郎(インナーチャイルド)を慰める言葉でもあったのかも知れない。

「帰ろうか。な、帰ろう」と、ひとり海辺を歩き出す菊次郎の背中は、しょんぼりと打ちひしがれて、そのまま消えてしまいそうに弱々しい。「ソナチネ」の影響で、北野作品において海は「死」を想起させるので、余計に不安になる。しかし、マサオが駆け出して菊次郎の手をつなぎ、逆に菊次郎を励ますように見上げると、ボロボロに傷ついた二人は、一人では無理でも二人でなら乗り越えられるさ、というように、「同志」として歩き出すのである。

夏祭りの場面で、調子に乗った菊次郎が地元のヤクザにシメられるシーンで、フルボッコにされた菊次郎が倒れているそばに、夜店の射的で獲ったパンダのぬいぐるみが落ちている。神社の境内で待たされていたマサオには、「階段から落ちた」と血だらけの顔で嘘をつく菊次郎だが、ちゃんと(汚れた)パンダのぬいぐるみを持って帰ってきている。マサオに傷の手当をしてもらい、旅立つ翌朝、そのパンダのぬいぐるみは境内に残されている。北野監督の著書の中で、1994年の事故で大怪我をした自身の体を「ボロボロのぬいぐるみ」と繰り返し表現されているので、勝手にメタファーだと考えた場合、そのボロボロのぬいぐるみを置き去りにしていく心理には、マサオのために、もう暴力沙汰になるような自分をやめよう、という少し大人になった菊次郎の思いがあったのではないだろうか。

後半、小説家志望の優しいお兄さん(今村ねずみ)、ハーレーに乗るデブのお兄さん(グレート義太夫)とハゲのお兄さん(井手らっきょ)と共に、菊次郎とマサオはキャンプをして遊ぶのだが、この部分が賛否両論に分かれて論議されている。ギャグが面白くない、グダグダと冗長だ、たけし軍団のコントの延長に過ぎない、実生活の関係性(殿と弟子)を映画に持ち込むべきではない、らっきょが脱ぐ必要が分からない、などである。

この後半部分は、北野監督のコメディー・センスの披露というより、菊次郎が一生懸命にマサオを楽しませようと遊びに夢中になるのと同時に、寂しかった子供時代の自分の満たされなかった心を癒すプロセスでもあり、他の大人たちにとっても、二度と戻ってこない夏休みの追体験でもあり、子供に戻れる貴重な時間なのだと考える。従って、ギャグの完成度云々はあまり重要でないのではないか。らっきょの脱ぎっぷりも、バカバカしいほどの夏の暑さと自由さの中で、振り切れた開放感を体現していて、「たけし軍団のギャグ」と括らずとも、この遊びの場面にはちゃんと属性のある演出で、海外の観客にとっても特に違和感はなかったのではないかと思う。

また旅の終盤、菊次郎はマサオを置いて、自分の母親がいる老人ホームへ向かう。施設の人と、菊次郎はここで初めて敬語で言葉を交わすのである。年老いた母親は、他の女性が同じテーブルに座り声をかけてくると、プイッと不機嫌そうに無言で立ち上がり、別の空いている席へ移動してしまう。これだけで、この母親が難しく付き合い辛い性格だということがよく分かる。その様子を遠くから眺めているだけの菊次郎は、声をかけることもできずに去っていく。もし、母親が声をかけてきた女性と明るく会話をしていたら、菊次郎の心も違っていたかも知れないが、変わっていないな、という諦めに似た気持ちと寂しさがあったと考える。また、距離的な理由だけでなく、心情として、自分を捨てた母親に会いにくることなど、今までなかったに違いない。たまたま道中だったとはいえ、きっと菊次郎にとっては大きな一歩だったのではないだろうか。

旅を終えた菊次郎とマサオは、橋の上で別れることになる。一瞬逡巡してから菊次郎はマサオをぎこちなく抱き寄せるのだが、これは映画の冒頭で(同じく隅田川のほとりで)岸本加世子にどやされていた菊次郎には絶対出来なかった行動だろう。この映画の主人公はあくまで菊次郎であり、菊次郎の一夏の冒険と成長の物語である。

 岸本加世子は冒頭でしか出演しないのだが、この旅の仕掛け人は彼女であり、すべて加世子の計算通りに運んだのではないだろうかとさえ思えるフシがある。菊次郎のようなヒモ男とは、女性はよほど母性的で包容力があり、肝っ玉の据わったしっかり者でなければ、関係が成立しない。その場の思いつきであったのは確かだが、少しの勝算もなく、あんな無責任で滅茶苦茶な男と、小学生の男の子とを一緒に旅に出した訳ではないと思うのだ。ひょっとしたら「可愛い子には旅をさせろ」というような、確信犯的な心理で菊次郎を送り出したのかも知れない、と私は思っている(もちろん「可愛い子」とは、マサオではなく菊次郎のことである)。子供と接したことのない菊次郎と、大人の男性と関わったことのないマサオが、共に旅をすることで二人ともが成長するだろうと、加世子には直感的に分かっていたのかも知れない。道中に菊次郎の母親が入居している老人ホームがあることさえ、加世子の念頭にはあったかも知れない。時に女性はそんな風に、男性より一歩先を行っていることがあるものである。

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あらすじ:浅草の下町で、祖母と暮らす小学三年生のマサオ(子役)は、父親を事故で亡くした上、母親の顔も知らない。夏休みに入ってサッカー教室も休みになり、友達はみんな家族旅行に出かけ、マサオは寂しい思いをしている。偶然母親の写真を見つけ、遠くで自分のために働いているという母親に会いに行こうと思いつき、住所(愛知県豊橋市)のメモと、お小遣い(2千円)を握りしめて突発的に家出する。しかし不良に絡まれ、カツアゲされそうになっているところを、岸本加世子と菊次郎夫婦に助けられる。加世子は、子供一人で遠出は無理だから、暇を持て余している夫、菊次郎に同行させることにする。軍資金5万円を渡して、送り出すのである。

しかし、その5万円は横浜の競輪場で菊次郎が全額スってしまう。挙句の果てにマサオのお小遣いの2千円にまで手を出し、マサオのビギナーズラックで大穴を当てた菊次郎はキャバクラに行き、旅館で寿司の出前などを取って豪遊する。翌日も競輪場。しかし負けが込んで菊次郎は一人で焼き鳥屋でビールを飲み、その間店の外で待たされていたマサオは変質者にさらわれてしまう。危機一髪で菊次郎が助けに入るが、泣くマサオにさすがに反省する菊次郎。しかし、その後もクズっぷりは変わらない。その変質者から盗んだお金でタクシーに乗り、そのタクシーを強奪し乗り捨て(明らかに無免許)、ホテルの土産屋ではアロハシャツや水着を盗み(チェックアウト時に清算させられているが)、ディスプレイの釣り舟の中に入って叱られ、庭園内の池で釣りをしては叱られ、泳げないのに無理をしてプールで溺れ、ヒッチハイクを断られてそのトラックのフロントガラスを割り、盲人のふりをしてヒッチハイクしたり、道路に釘を仕込んでタイヤをパンクさせて車を堤防から転落させ(タイヤ交換を手伝ったら乗せてもらえるだろうという企みだった)・・・

どうにか住所先までたどり着いた二人だったが、そこには母親とその新しい家族が暮らしていたのである。ショックを受けたマサオを慰めようと、菊次郎は天使の鈴を渡し、鈴を鳴らせば天使が助けに来てくれる、などと精一杯の作り話を聞かせるのであった。

友情が芽生え始めた二人だが、菊次郎は相変わらずのクズで、夏祭りでは夜店のゲームでズルをし、調子に乗ったところを地元のヤクザにシメあげられたり、畑でトウモロコシを盗み、路上販売したりするのである。菊次郎とマサオは、道中で出会った小説家志望の男(今村ねずみ)、ハーレーに乗る太めの男(グレート義太夫)とスキンヘッドの男(井手らっきょ)と5人でキャンプをすることになる。「ソナチネ」の考察でも書いたのだが、「遊び」には四つの種類があるとされていて、監督が意図したとは思わないが、本作でも四つのカテゴリすべてを網羅しており、菊次郎たちは遊びの限りを尽くしたとことになる。

競争: 運動、格闘技など → だるまさんがころんだ、かくれんぼ
偶然: ジャンケン、くじ、賭博など → 弓矢、スイカ割り、カップに石
模倣: 演劇、モノマネ、人形 → フグ、タコ、宇宙人、インディアン
眩暈: メリーゴーランド、ブランコなど → ターザンごっこ

ラスト、旅の終わりで、マサオは「おじちゃん名前なんて言うの?」と今更な質問をする。「菊次郎だよ、バカヤロー」と少しの照れを含んで菊次郎が答え、マサオは橋を渡って走っていく。澱んだ茶色の川の流れは早く、船が通り過ぎるところで映画は終わる。例え同じ浅草に暮らしているとしても、彼岸と此岸に別々に歩き出す二人は、もうきっと会うこともないのではないか、まさに一期一会を思わせるエンディングである。

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「アダルトチルドレン」という学術用語でもない和製英語が、一般に浸透して久しい。心は子供のままの大人である「アダルトチルドレン」が抱える「インナーチャイルド」とは、幼児期から思春期にかけて、たくさん愛情をかけられるべき時期に充分に愛されなかったり、基本欲求が満たされなかったりすると、心の傷やストレスとなって留まり、その人が大人になっても、いわゆる「内なる子供」として、その人の人格や行動を支配する潜在意識下のトラウマ、だと私は理解している。母親に捨てられた菊次郎とマサオは、この旅を通してそんなトラウマを少し癒すことができたのだと思いたい。

また、親がアルコール依存症などの機能不全家庭で育った人々に限らず、程度の差はあっても、誰もが少なからず「インナーチャイルド」を宿しているのではないだろうか。だから、この作品を見て、菊次郎とマサオの友情と久石譲のエモーショナルすぎる音楽とに、ホロリとさせられるのかも知れない。

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