「陽炎座」について

鈴木清順監督の「陽炎座」(1981)は、前年公開された「ツィゴイネルワイゼン」(1980)の商業的成功を背景に制作され、前作と系譜を同じくする、幻想的且つ難解な作品の第二弾である。第三弾の「夢二」(1991)と合わせ、「大正ロマン三部作」と呼ばれているが、映像の美しさ、女の妖しさ、夢と現実・生と死の境界線が曖昧になっていくトリックのような作風は共有されるが、それぞれ個性が強く、ハッキリと好き嫌いの分かれる三本となっている。

本作は、泉鏡花原作の「陽炎座」をはじめ、「艶書」、「春昼」、春昼後刻」、「星の歌舞伎」、「酸漿」などから抜粋したパーツをコラージュした構成となっている。また、博多人形の裏返しのエピソードは、深沢七郎氏原作の「秘戯」という短編小説から挿し込まれている。これだけ色々なストーリーを一つの脚本にまとめるのも凄まじい作業だが、それぞれ台詞が意外と忠実に再現されていてさらに驚かされる。私はどちらかというと泉鏡花の文体が不得手なため、読んだ作品数が少ないので、上記の作品くらいしか思い当たらないが、他の鏡花作品、また他の作家の著書もちりばめられているのかも知れないと想像する。

艶書」からは人妻が主人公の手紙を拾うエピソードに始まり、「志です。病人が夢に見てくれるでしょう」という台詞や、また見舞いの花籠を「青山墓地で方々の墓にたむけてあります其の中から枯れていないのを寄って拵えてきたんですもの」といった台詞が、そのまま使われている。

春昼」には、懐紙に書かれた小野小町の「うたた寝に 恋しき人をみてしをり 夢てふものは たのみそめてき」という短歌の引用、また「その影が・・・御新姐と背中合わせにぴったり座ったところで・・・顔を見ると自分です」という男の魂が抜けた話、背中に「丸・三角・四角」を指で描くシーンがある。ちなみにここでは、ファム・ファタールの名前は「玉脇みお」となっている。また、優作が狸囃子を追いかけ、田園風景の中を彷徨うシーンで、突然出てくる馬の顔も、「春昼」には「のんきな馬士めが、ここに人のあるを見て、はじめて馬の鼻頭に現れた」という部分をベースにしているのではないだろうか。

春昼後刻」では、婦人のスケッチブックに丸・三角・四角ばかりが描かれているのを見て青ざめるシーン、ラストで松田優作が呟く「四角院円々三角居士」という戒名。さらに映画では若干唐突な印象を受けるのだが、松田優作が階段を昇っていくおイネを追おうとすると、獅子舞の格好をした子供たちに邪魔をされるが、その小さな連獅子も登場している。

陽炎座」は、映画のラスト三十分は、屋台の上に掛かる行燈に書かれた「坂東寄せ鍋」、「尾野上天麩羅」、「市川玉子焼」から、子供の状況劇の台詞から、陽炎座の崩壊に至るまで、原作にほぼ忠実に沿っていると言えよう。

星の歌舞伎」では、転びそうになった老婆が品子の髷に掴みかかるシーン、また「あの婆さんの手が・・・髪が粘りでもするようで我慢が出来ませんから、思い切って洗いますわ。さぁ、思い切って浴びせてください。おぉ、涼しい。あぁ、冷たい。骨も冷えます。斬られるようです」という台詞まで同じである。また、「いち早く乱れかかる髪を肩に隔てて、つと身でかばって、絣の其の羽織の袖を婦人の肩にしいたのである」という濡れ髪に配慮した優作の紳士的な行為も、この小説にある。

酸漿」は、松田優作が大楠道代に聞かせる、ほおずきを食べて死んだ女の話である。「『のどへ酸漿が引っかかって苦しくって苦しくって。』・・・それから小銀は果敢なくなるまで血を吐く度に、嬉しそうに『あぁ、嬉しい。ほおずきが出るんだねぇ。』」と、優作が話すストーリーそのままである。

反復するモチーフであるほおずきは、死者の道を照らす明かりとして使われている。お盆にほおずきを飾るのは、ご先祖の霊が迎え火をたよりに集まるとされていることから、ほおずきを提灯に見立てて、精霊が迷うことなきよう迎えるためである。この映画の中でもほおずきの実、ほおずきの形に折られた手紙などが出てくるが、そのたびに魂が誘導されていく。

また、水も繰り返されるテーマの一つである。タイトルバックの川の流れ、手水舎の水、線香花火の器の水、舟で川を渡るシーンは四度も出てくるし、心中も夜叉ヶ池に浮かぶ棺の中である。また、セミクライマックスである金沢での優作と品子の会話は、川を隔てて、まるであの世とこの世の分かれ目のように、現実味を持たない。「ツィゴイネルワイゼン」の切り通しと同じように、「陽炎座」では水をくぐるたび、少しずつ時空が歪んで、あの世へ近づいて行っていることを暗喩しているようでもある。

クライマックスで品子、玉脇、優作は、ついぞ空間的な場所としての「陽炎座」で顔を合わせるが、そもそも初めからこの映画全体において登場するのは、加賀まりこ以外、肉体的あるいは精神的に、六道の辻にさしかかっているような人間ばかりである。皆がそれぞれ、死者の世界へと引きずり込まれそうになっている。玉脇の言う通り、その「陽炎座」とは、六道の辻の掛け小屋。六道の辻とはすなわち、あの世とこの世の境目であり、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上の分かれ道であり、また冥界の入り口でもある。

イネは余命いくばくもない病状であり、イネとはライバル関係でありながらも、愛する男に恨みを孕む女として同調(シンクロ)する品子にも、死の気配は連鎖する。玉脇はそんな現実から逃避するように射撃に興じたり、自分の庇護の下にある人間たち(品子、優作、加賀まりこ)を駒にゲーム感覚で玩んだり、挙げ句の果てには品子と優作に心中させようとしたりする。つまり、品子・イネ・玉脇の三角関係は、イネの容体の悪化に伴って歪みはじめ、そこに巻き添えを喰った優作を加えた四画関係と形を変えて、さらに大きく揺らぐことになるのである。

「私とおイネさんが刺し違えて死ぬところを見物したいのかしら」と品子が呟くように、品子とイネは否定できないライバル関係にあり、品子は死ぬ間際に「私はおイネさんに負けたのかしら」と嘆くほどである。イネはイネで、「顔は、髪の黒さは?その方(品子)と私とどっちが綺麗かしら?」と張り合ったり、「奥さんって誰?誰が奥さんなんです?(私が)玉脇の家内です」と主張するのである。

しかし同時に、「品子さんが、あの人がね、私のことがよく解ってるんですわね。女同士なんですものね・・・」と、長年の好敵手の存在を受け入れていることも伝わってくる。品子に至っては、陽炎座でおイネ役を演ずる子役が大紅蓮(地獄の一種で、そこに落ちたものはひどい寒さにより皮膚が裂けて流血し、紅色の蓮の花のようになる)に落ちて雪女となってしまったという舞台設定に同情し、寒そうだと自分の羽織を着せてやるほどである。

原作では「おイネさんは、おイネさんは、これからどうなるんです、どうなるんです」と狂言回しに食い下がり、「雪女となっての、三つ目入道、大入道の酌なと伽なとしょうぞういの(妖怪たちのホステス的な)」と嘲笑されると、「生意気なことをお言いでない。・・・おイネさんと同じ死骸になるんだけれど、誰が、誰が、酌なんか、・・・かわいそうにおイネさんを。女はね、女はね、そんな弱いものじゃない。私をご覧!」と啖呵を切っている。

鳥屋である加賀まりこが、「突っつき合って死んだんですよ、ついさっき、鳥が。却って弱くなるものなのよね、大事にしすぎると」と言う場面がある。それに対し、濡れ髪で旦那に会いに行けば誤解を招くと懸念する優作に対し、品子は「女はそれほど弱いものではなくってよ」と言い放ち、また狂言回しは「二度添いにされた妻(品子)は喜んで夫の言葉にわざと従いました。従っておいて、見返してやりました。女はそのようなやわいものではないと、見せてやりました」と説明するように、玉脇に大事にされなかった女二人が意外と強いことが示されている。品子は優作と不義を働き、意地を貫くために玉脇の希望通り、死んで決着をつけようと考えている。とても理解しがたい心理であるのだが。

複雑にこじれた夫婦関係から目をそらすように、玉脇は優作をオモチャにして遊んでおり、品子はそれを利用して玉脇に復讐しようとしている。優作は二人によって利用されているだけなのである。優作が「冗談じゃない、あなたが訳の分からない意地を立て通し、私がその巻き添えになる訳ですか、それは無いでしょう」と、断固拒絶してその場を去る判断は正解だ。

玉脇には、二人の妻以外にも若い女がいるし、加賀まりことも只ならぬ関係を維持している上、後援する劇作家の優作さえもゲームの駒にしてしまう、どうしようもない自己中心的なサディスト、あるいはサイコパスである。優作は品子に対し、「ご夫婦の退屈しのぎには面白いでしょうが、オモチャにされる私はたまりません」と抗議するがしかし、玉脇にオモチャにされたのは品子も、おイネも同じなのである。

「伯爵令嬢」のネーム・バリューのために購入された品子は、結婚後、イネという先妻の存在を知らされショックを受けるも、狂言回し曰く「男に取り替えられたオモチャ」として、女の意地を貫いて生きてきた。その執念も生半可ではない。優作は品子を「魂と魂が傷つき交わっているような」女と表現しているが、そうならざるを得なかった境遇がある。

陽炎座の狂言回しは「イレーネがおイネになった時から狂ったのだ」と言うが、母国ドイツを捨て、金髪も碧眼も捨てたイネの病室の洗面台には、黒色の髪染め液の空き瓶がずらりと並んでいた。捨てられたことも分からず、死ぬ間際まで、愛する男の希望にこだわったイネの情念はやはり狂気である。加賀まりこの台詞に「恨むのも、惚れるのも同じことですよ、女にとっちゃ」という領域である。

心中の準備を整えた桶(棺?)の中で品子は、玉脇の「その男(優作)に心惹かれた分だけ」という言葉に対し、「どこまでお馬鹿さんなんでしょう、男って。命をかけてまで何故不義を働いたのか、女の気持ちなんてちっとも解っていないんですから。死ぬ前に一度あなたのお顔を拝見したいわ」と言う。これだけを聞くと、不義を犯したのは玉脇を愛していたからこそだ、優作は単なる当て馬に過ぎない、というように受け取れてしまう。

一方で優作に対しては、「手紙の通りになりましたわね。四度目の逢瀬は恋になって、死ななければなりません」と言ったり、ほおずきについても「私はあの時、魂を差し上げたんですよ」などと甘い言葉を吐くのだが、品子の心理は捉えどころがない。また、玉脇が品子に午前中に会った、と言っているのに対し、品子は優作に「玉脇が金沢に来てるのですか?」とすっとぼけ、「心中?誰の?」などと白を切る。その品子の心を象徴するように、優作と再会する祠の扉には、表は菩薩、裏は鬼の絵が施されていて、くるりと裏返しになる。いわゆる「外面如菩薩・内心如夜叉」である。

ラストで村人たちが「死体が上がったぞ。心中だ」と騒ぐ場面があるが、これは間違いなく玉脇と品子だろう。川を流れる(酸漿の形をした)紙提灯が解けると、その紙の上には、鉄砲で撃たれた品子が逃げ腰の玉脇を捕らえている絵が浮かび上がる。玉脇が「女が死のうと思いつめたら男は助からんよ」と優作に諭した通りの結果となったのである。

一方で、品子との心中劇から逃げ出した優作は、しかし裏側の世界を知ってしまったため、もう以前とは同じ男ではなくなってしまった。タガが外れたような、酔ったような、呆けた状態で、優作の日常はもう無惨絵に彩られた裏返しの世界である。やがて死んだ品子の幻と背中合わせに座り、優作は死を悟り受け入れて「四角院円々三角居士」と戒名を唱える。ちなみに背景に使われている美術画は弘瀬金造(絵金)や月岡芳年の無惨絵にインスパイアされたもので、おそらく西田真氏による作品であると思われる。クレジットから、西田真氏は「夢二」(1991)で使われていたシーレやビアズリーなどの模写も担当されたようだ。

中盤から登場する原田芳雄の役柄は、優作と同じく、妖(あやかし)に魅入られ、この世とあの世の境目に引き摺り込まれた同士、といったところか。

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あらすじは、新派の劇作家を演じる優作が、パトロンである資産家の玉脇が退屈しのぎに仕組んだゲームに巻き込まれていくうちに、生と死の境目までたどり着いてしまう話、である。しかしテーマは女の情念と意地ではないだろうか。

冒頭で、優作が落とした手紙を品子が拾うのは偶然だとしても、それ以降の品子との邂逅は、すべて玉脇の思惑通りであったと考えられる。電車の駅構内で老婆に髷を台無しにされるハプニングまでは計算されていなかったとしても、わざわざ品子が送迎の車から駅で降り、ちょうど駅にいた優作と出会っているのは、玉脇の差し金だと考えられる。優作が品子と関係を持つ夜も、ほろ酔いの優作を舟に乗せて移動させ、おそらく玉脇を待っていたはずの品子の部屋へ、優作を向かわせた。品子が優作を見て驚いた表情をするのは、玉脇ではなく優作が現れたことに驚き、また玉脇の心無い遊びを見破ったからかも知れない。

夕食に呼ばれた夜、何も知らない優作はそのあらましを玉脇に話してしまう。トイレに立つと、まったく別の部屋に通され、その部屋が品子と会った部屋の装飾にそっくりなことに気づく。まさか、品子は玉脇の妻なのかも知れない、と焦りはじめる。

今でも玉脇に金銭的に世話になっており、また玉脇に頼まれて優作を下宿させてやっている加賀まりこは、もちろん玉脇の協力者の一人だろう。優作が玉脇の妻について尋ねても、素知らない振りをする。その後は段階的に情報を小出しにし、優作を困惑させるのである。

そんな中、優作は、品子の後ろ姿と似たおイネに声をかけてしまう。人違いであったが、おイネは「玉脇の家内です」と名乗るのだった。優作は、品子が玉脇の妻でないことを確かめなければならない。

優作は舟に乗り、玉脇の屋敷の裏手から入ろうとするが、遊猟中の玉脇に見つかり、鉄砲で撃たれる。「鳥と間違えて撃ってしまうところだったよ」というのは明らかな嘘である。自分で仕組んだとは言え、品子が不義を働いた相手という嫉妬心があったのではないだろうか。「鳥ってのは馬鹿だなぁ、いくら撃ち殺してもまた平気でやってくる」と言うのは、手の上で転がされていることに気づかない優作を嘲笑っているようにも聞こえる。

玉脇にイネと出会ったことを話すと、イネは危篤状態であり、外出など無理だと聞かされる。病院へ見舞いに赴くと、イネはもう亡くなっていた。計算すると、優作がイネに会った時刻には、もうイネは臨終だったのである。

妻が死んだというのに、着飾った女性たちで賑わうカフェで踊る玉脇。そこに居合わせた加賀まりこは、優作を弄ぶように、実は玉脇には妻がもう一人いるのだと話す。やはり品子が玉脇の妻なのか?

イネの葬列の時、加賀まりこは品子を指差して、二人目の妻はあの人だと言う。ショックを受けた優作は、とっさに品子を追いかけるが、見失ってしまう。品子を探しているうちに、「女、子供のオモチャでございますよ」と、ほおずきを売る老婆に出会う。ほおずきを買おうとするが、優作は子供たちに財布を盗まれてしまい、「男の魂を取られましたな」と老婆に脅かされるのであった。

ある朝、優作は女性から手紙が来ていると起こされる。折り紙をほおずきの形に折った手紙で、品子から金沢で会いたいという内容であった。加賀まりこは「この人、玉脇のナニじゃないでしょうね。だったら、タダじゃすみませんよ」と忠告し、「殺されるわよ、旦那様って人はね・・・本当は人間が撃ちたいのよ」と警告するが、「旦那の奥方と決まった訳じゃないし、自分の気持ちを通させてもらいますよ」と、優作は聞く耳を持たない。

優作が慌てて汽車に乗ると、なんとその汽車には玉脇も乗っている。「退屈だから、心中を見物しに行くのだ」と聞かされ、果たしてそれは自分と品子のことだろうか、と不穏な思いにかられる優作。待ち合わせの旅館に行くが、いくら待っても品子は現れない。

すると玉脇から電話がかかって来て、「こっちも待ちぼうけだ、どうだこっちへ来ないか」と誘われる。すべて玉脇の自作自演であるから、優作がどの旅館に泊まるかも把握していて不思議はない。川沿いを歩いていると、金髪のイネと黒髪の品子が乗った舟が通り過ぎる。座敷へ着くと、玉脇が金髪の芸者の格好をして待ち構えていた。そういった二人連れをよく見かける、という噂を利用した玉脇のサプライズであった。しかし、その噂も本当か定かではない。周りの芸者たちも、玉脇の協力者たちである。

廓街で優作は祭囃子を聞き、その音色に誘われて、田園の方までさ迷い出てしまった。同じように祭囃子を追ってきた原田芳雄と出会うが、音が別々の方向で聞こえると言って、別方向に進む。

森の中の祠にたどり着いた優作は、そこに品子の書いた短歌が置かれているのを発見する。やっと品子と会えるのだが、品子は優作を金沢へ呼び出す手紙を書いていないと主張する。からかわれていると思った優作は、品子を「玉脇の奥さん」と呼び、もう止めようと言い捨てる。品子は一旦姿を消すが、川辺でもう一度二人は再会する。すると今度は、品子は夢の中であの手紙を書いたと言う。「夢の手紙を信じてもいいのですね」と優作は深みにはまっていく。品子はイネのパープルの日傘をさして去って行く。

優作は再び玉脇に誘い出され、心中見物のため、夜叉ヶ池へ行くことになってしまった。舟を漕ぐ優作に、玉脇は種明かしを始め、「妻の品子と心中したまえ」と言うのであった。追い詰められるが、夫婦の痴話喧嘩に巻き込まれて死ぬのは御免だ、と優作は逃げ出す。

その夜、優作は原田を再会し、酒を酌み交わす。原田に博多人形の裏返しを愉しむ「フリーメーソンめいた会合」に連れて行かれる。優作は裏返しの世界を体験する。そして優作が旅館に戻ると、イネがおり、誘われて関係を持つ。

小さな駅で電車を降りた優作は、また祭囃子に誘われて、廃墟のようなうらびれた町にたどり着く。そこには旅の興行か土地の劇団か、芝居小屋があった。そこで子供たちが織りなす状況劇は死んだイネの魂の話であった。観客の中には、玉脇も品子もいる。その劇の中ではイネは地獄に落ち、雪女に成り果て、妖怪たちの相手をさせられていた。品子は動揺し、この脚本はどうなっているのかと子役たちに問い詰めると、狂言回しが現れて、種明かしをするのであった。イネと品子の人生の裏返しを見せるのだった。途中で席を立つ玉脇の鉄砲の先には、ほおずき型の提灯がぶら下がっている。

東京に戻った優作は、もう以前の優作ではなくなっていた。また狸囃子に誘われて、優作は品子の幻に出会う。裏返しの人形師から聞いた話と同じように、自分の魂が抜け出て品子と背中合わせに座るのを見た。優作が自分の戒名を呟いて、映画は終わる。

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