「あ・うん」について

この度、高倉健さん主演の映画をマラソン方式で鑑賞し、前回の投稿では私なりの所論を述べてみたのだが、数々の名作の中で降旗康男監督の「あ・うん」(1989)だけはいまいち消化できず、喉に刺さった小さな骨のように気になっている。そんな鑑賞後のもやもやを解消すべく、その理由を掘り下げて詳らかにしてみようと思う。

舞台は日中戦争開戦頃の東京である。しがないサラリーマンの板東英二、その愛らしい妻の富士純子、そして夫の二十年来の戦友である高倉健の三人を中心に、趣と情緒たっぷりの美しい映像で話が展開していく。ちなみに高倉健の役柄は中小企業の社長であり、その会社は軍需景気で羽振りがいい、というのは結構重要なポイントである。

そして坂東一家と高倉健の家族ぐるみの付き合いが和気藹々と描かれるのだが、実は高倉健は富士純子に密かな想いを寄せていて、そして富士純子もそんな高倉健の気持ちに勘付いており、また憎からず思っている、という危うい均衡の三角関係でもある。ちなみに高倉健は既婚者で、夫に全く相手にされない宮本信子演じる哀れな妻がいる。板東英二はそんな二人に気づいているのか、いないのか。いくらプラトニックな愛だとしても所詮は不倫の領域に片足突っ込んでいるわけで、互いの伴侶に対する裏切り行為に違いないと思うのだが、映画の雰囲気はしっとりとした風情を貫き、男の堅い友情と、実ることのない純愛をテーマとした美談のように描かれている。

それが全くもって解せないのである。

これは本当は、女の底知れない怖さと狡さと罪深さを描いた映画なのではないのだろうか。坂東との平和な家庭を壊すことなく、もう一人の男との愛を密かに育み、胸をときめかす富士純子。彼女の潜在意識を分析してみれば、うだつの上がらない夫とのマンネリ化した結婚生活の中で、女としての承認欲求を満たすため、もしくは、金銭問題が起きるたびに金持ちの彼からうまくお金を引き出すため、高倉健の精神的な愛を弄んでいる、と言えないか。顕在意識上では天真爛漫な自分を演出しつつ、無意識的に男たちを自分本意に操るという、恐ろしい魔性の女の物語なのではないだろうか。

また、もし坂東が二人の秘めた恋に気づいて素知らぬふりをしているとしたら、これは「大事な親友の想いを蹂躙したくない」などという純然たる気持ちより、「金持ちの友人にはそれ以上の利用価値があるから、二人の戯れには目を瞑り、関係は切らずにおこう」という卑劣で浅ましい思惑であるように思われてならない。

加えて高倉健は自分の妻を大事にせず、女遊びも派手である上に、親友の奥方に横恋慕している。坂東との純粋な友情を装って一家に会いに行くが、裏では富士純子と心を通いあわせてほくそ笑んでいるなんて、男の風上にもおけない相当な下衆さだと思うのだが。健さんにこんな役をさせていいものか。

この三人が、谷崎潤一郎の「卍」のような変態的倒錯性を持たない限り、こんなにも破綻した三角関係を美化して描くことには相当無理があると思うのである。一般的なレビューの評価は上々のようだが、私のように心証を悪くした方も少なからずおられるのでは。

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